今月、延暦寺で渡部光臣住職が戦後7人目となる「十二年籠山行」を満行されたとの新聞記事を目にしました。
その記事から、最も厳しい修行のひとつといわれる「十二年籠山行」とはどのような修行なのかについて興味を持ったため、「十二年籠山行」関連書籍として本書を読んでみました。
以下にて本書の感想をお伝えします。
目次
第2章 私を行に向かわせたもの
第3章 死の縁に立った仏様―好相行に挑む
第4章 決死の十二年籠山行
第5章 一隅を照らして生きる
概要
命懸けの十年を経て初めて人間としての成長がある。比叡山に1200年伝わる驚異の荒行を通して得た生きるヒント。
引用元:「BOOK」データベース
感想
本書は平成21年に比叡山で十二年籠山行満行を果たされた宮本祖豊氏が著者になります。
十二年籠山行と耳にしても、知っている方はあまりいないのではないかと思います。
ご多分に漏れず、私も本書を読むまではまったく知りませんでした。
そこでまずは、十二年籠山行について簡単にご紹介します。
籠山(ろうざん)行は伝教大師の時代より始まりますが、現在のように大師の御廟である浄土院で生身の大師に仕えて奉仕する“侍真(じしん)”の職を勤めるようになったのは、元禄年間からです。
現行の籠山行に入るためには、まず好相(こうそう)行という礼拝行を行なわなければなりません。
この行は、仏が現れるなどの好相を感得するまで続けられ、その後戒壇院にて戒を受けます。ここで初めて籠山比丘となり、12年間の山修山学に入ります。
籠山僧は、伝教大師に食事を献ずるなどの日課のほか、坐禅や勉学、境内や道場内の清掃に明け暮れ、うつろい激しい世間の流れから離れて、一日一日を生きるのであります。引用元:天台宗 HP
12年もの長い年月をかけて同じことを繰り返していく修行であり、想像するだけでも厳しいことが十分にわかります。
傍から見ると同じことの繰り返しに見えても、修行者にとっては精神的な成長があることから、日々違った世界観が広がっているのかもしれません。
本書でも触れられていることを含めて、もう少し踏み込んで十二年籠山行の内容についてご紹介します。
◆12年の籠山行に入る前に「好相行」と呼ばれる修行を行います。
この好相行は、「仏の姿を感得する」まで続けるものになり、期間としては3か月程度が目安になります。なかには、3年かかる方もいます。
修行内容としては、3000もの仏様の名前を唱えながら五体投地の礼拝を行います。
途中、横になって休むことも許されず、不眠不臥での行となり、精神的にも肉体的にも極限の状態になります。
◆「好相行」を終えることで、籠山行に入ることができます。
この籠山行とは、境内から一歩たりとも外に出ることはできず、夜明けとともにお経を唱えたり、清掃をするなどのお勤めを日々決まった時間帯で繰り返していきます。
なお、食事は1日2食の精進料理になります。
◆籠山行の間はテレビやインターネットもなく、外界から完全に閉ざされた環境で生きていくことになるため、仮に病気になっても病院で治療が受けられません。
親の死に目にも会えないほどの厳しさです。
そのため、籠山行の間にお亡くなりになる方もいます。
上記はあくまでも概要であり、深く知れば知るほど、厳しさが理解できると思います。
著者がこのような厳しい修行を行ったことには、自身の魂や心の成長を図るほか、「無常観」が根底にあります。
人の世は儚く、永遠不変のものはないと。
そして、いつかはこの世を去るため、今の一瞬に全力を尽くすことで見えてくるものがあると、著者は指南されています。
十二年籠山行を満行した著者だからこそ、重みがあると感じました。
忙しなく過ぎていく日々こそ、立ち止まって「無常観」に目を向けることも必要な気がしています。
何気ない日常のなかに埋もれている価値ある物事を見落としてしまっているかもしれませんので。
本書の第5章では、天台宗の開祖・最澄が残した言葉である「一隅を照らす」ことの大切さにも触れられています。
そこから、目の前のこと、つまりは一隅を自らが照らすべく行動や努力することの尊さに改めて気づかされます。
自分自身が発端となり、周りに良い影響を与えていくこと。
その可能性は誰しもが持っています。
それを認識すると同時に、いかに行動に転化させるかが大事になります。
言うは易く行うは難しですね。
本書は全体として、宗教に関する前提知識がなくてもスムーズに読み進めることができます。
何より、十二年籠山行などの修行から仏教の世界観を知ることができるほか、著者の修行体験といった究極のストイック生活から前向きな刺激を受けるはずです。
「無常観」や「一隅を照らす」こと、そして今の一瞬を精一杯に生きる姿勢の大切さに気づかされた一冊です。